亀田大学

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── お母様はどのような容態だったのでしょうか。

僕が18の時に乳がんが発覚して、そこから膵臓がんになって全身へ転移してしまったのですが、ちょうど僕が25歳ぐらいで、CoCoのアレンジや崎谷健次郎さんという方のバンドにサポートメンバーとして呼んでいただけた頃、膵臓がんが発覚したのでした。最初は「余命6ヵ月」と言われたんです。でも免疫療法を試したら、6ヵ月と言われた寿命が5年延びたんです。で、その頃、父が再びニューヨーク勤務になって、母は僕を産んだ時もアメリカに住んでいたわけですから、僕が促す形で、母は父とニューヨークに行きました。きっと幸せな時を過ごせたと思います。

── そうだったんですね......。

毎月僕が薬を日本の病院に取りに行って、ニューヨークへ送っていました。小さな箱に、薬を30包ぐらいと、その頃に僕がアレンジしたものや関わったCDなんかを一緒に入れてね。リリースがない時はちょっと寂しくてね。もう音楽もプライベートも、何もかもがグシャグシャで、音楽作りに没頭していた感じでしたね。

── たしか学長は28歳でご結婚されましたね。

妻がビックリしていましたが、僕は結婚前、収入のほとんどがCD購入に消えていましたね。他は何にも使わない。あっても服を買うくらいで。多い時は、CDだけで月に40万円分ぐらい購入していましたから(笑)。

── それはすごい!! 学長は90年代中盤から徐々に活動が起動に乗ってこられて、99年に椎名林檎さんのファーストアルバム『無罪モラトリアム』のアレンジを手掛けることになります。この当時、学長が聴いていた、その他の音楽とは?

k_96.jpg主なものとしてはレッド・ホット・チリペッパーズ『カリフォルニケイション』(99年)、ビョーク『ホモジェニック』(97年)、レディオヘッド『OK コンピューター』(97年)の3枚かな。自分が試してみたかったことが、それぞれの姿で具体化されていたアルバムでした。勝手に応援されているというか、肯定されているというか、ともかく背中を押してくれているような気がした3枚です。先ほどまでのお話しの通り、僕は「真夏の果実」をきっかけに、プロデューサーとしてやっていきたいという想いが強くなった。やがて西川(進。ギタリスト)さんとか、カースケ(河村"カースケ"智康。ドラマー)とか、林檎さんの『無罪』組であり、"亀の恩返し"に繋がるメンバーと出会い、その辺りから、レコーディングスタジオでいろいろと試すようになりました。歪み、オーバーコンプ......それまでのポップスでは、まず使わないような奏法を取り入れてみたりと、まあいろいろトライして、たくさんのボツテイクを作っちゃっていましたね(笑)。

── ボツテイク?

そう。お仕事なのに"お蔵入り"(笑)。新人の方とか、アイドルの方でもいろいろと実験を重ね、それを応用してね。でも「こんなのリリースできないよー」とか笑われちゃったりしてね。帰りの車中で、悔しくて本当に泣きながら帰りましたよ......。

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